Essay

−書は「表芸」−
 今年40回となる硯池会書道展は、昭和50年に創設され、創始者、師長長谷川東邦先生が亡くなられた平成4年は中止となりましたが、ほゞ毎年開催され今日に至ることは誠に驚くべきことである。
 平成21年度33回硯池会は、小樽仏教会の”ほとけのことば墨蹟展”と併催の形で開催され、場所も運河プラザで盛況且つ斬新な企画であった。
 この年を境に、それまで別個に開催されていた「硯池会書道展」「呵凍会書道展」「楽書展」を同時開催することとし、「臨書と創作書道展」と名称の変更をした。
 会員の減少と老齢化による止むざる決断でありましたが40回を迎えるにあたり、東邦先生命名の初心に帰るべく、硯池書道展と会名を戻すことに決定しました。
 継続は大きな力となりますが、継続することに囚われ、書展のための書作を続けてはいないだろうか?
 日常生活に活かす書、活きる書は書けているのだろうか?
 畳部屋もない、従って床の間もない現代の住宅に於いて、書は日常生活の中、どう活かされているのだろうか?
 パフォーマンスや商業デザイン化された文字が、書の本流と見なされ、古典書道は軽視され、表舞台から消えてはいないだろうか?
 師東邦先生は「書は表芸」と仰られていた。しかし現代、公文書や伝達の手段はパソコンやメールへと様変わりし、更に若者の伝達手段は多様且つ複雑に進化し続けている。 この状況の中、古典を学ぶ我々にとって活きた書道とは?
 日常生活に活かす書とは?
 「書は表芸」を再考すべき時と思うこの頃である。

古稀雑感
十年前還暦を迎えたときは 遂に来るべきものが来た感があった
その後 病気 手術 入院 通院の繰り返し あっと言う間に十年が過ぎた
昨年 数え年七十歳を迎え 還暦の時は祝う気など更々なかったが 弟 妹 甥が母の卒寿と共に祝いの宴を設けてくれ タブレットが贈られた
この小さな優れものが 今 私の新しい世界を広げてくれている
私の住む町内会では 町内行事の運動会の折 満年齢七十歳を迎えた人に 敬老をこめ紅白の餅を贈っている
晴れて 否 遂に私も立派な該当者である
  今年から 敬老の 餅もらう
  敬老の 餅をもらって 夏終わる
我が町内会は90戸余りの小さな町内であるが 敬老の該当者は69名で すこぶる比率が高い
団塊の世代が古稀を迎えるこの数年は ますます比率が高くなること間違いなしである
まさに 老老敬老 の町内会である
しかし これからの十年 あっと言う間の十年とはしたくない
全てプラス思考で ゆったりいきいきの日々を送れたらと願っている
  病院へ 元気に通う これ息災 

体罰雑感
体罰が問題になっています。
“昔は良いが今は駄目”とか“体罰はあり得ないこと、全てが暴力”と言うのが識者の見解のようです。
体罰の全国調査が始まり、体罰規制の線引きが協議されています。
しかし、もっと教育の根幹が協議され、単に学校教育に止まらず、多方面にわたる教育改革に目を向けるべきではないでしょうか。
礼儀正しい国民性は日本人の大なる美徳でした。
家庭での躾(しつけ)に始まり、学校教育、更には日本の武道、芸道は、礼儀を重んじ、他人を思いやる精神面の鍛錬(たんれん)が重視されました。
しかし、今問題になっている体罰は、勝ち負けに執着する余り、本来あるべき礼儀が形骸化された結果と言えます。
仏教に対機(たいき)説法(せっぽう)、相手の機根に応じて説法すると言う教えがあります。
親は子へ、師は弟子へ、大人は子供へ、それぞれの資質能力に応じて物事を伝えることが大事であり、人から人への伝達は、単なる知識、技術の受け渡しではないのです。人から人への伝達は、一様であってはいけないのです。
学校は知識、技術習得だけの場であってはいけません。学ぶという方向を見つめ、人と人とが輝きあう場所であってほしいと思います。
今、私たちの周りはケイタイ、パソコン等々、記録、伝達の媒体に満ち溢れています。機能の利便は加速を続け、止まることを知りません。
しかし、次世代へのバトンの受け渡しは人から人であるべきです。
便利を享受している我々は、大事なものを置き忘れてしまったようです。
人と人のふれあいを深め、日本らしさとは何かを見つめ直すときではないでしょうか。

新春閑話
今年 私は古稀を迎えた
“古稀”は 唐の詩人杜甫17歳の頃の詩「曲江二首」の中 〜人生七十古来稀なり〜に由来する
今や長寿国日本に於いては 七十歳は稀どころか “古くは稀だった”と読み換えるべきである
僧侶である私も老僧というにはまだ早く 青壮年の溌剌さはすでに失せ 誠に微妙な立ち位置にある
しかし 僧侶に限らず 古典芸能 書画等芸術の分野に於いては 八十 九十にして頂点という世界である
そう考えると 七十歳はスタートラインと言えるのである
最近スポーツの世界では 四十歳五十歳にして第一戦で活躍する人が増えている
肉体の衰えを超越できれば 理論と経験は益々円熟し その道を極めることは明白の理である
人はそれぞれの半生に於いて多少大小の差こそあれ “もしも あの時”という岐路に立ち 後悔 反省を繰り返している
あるいはこれで良しとする潔(いさぎよ)い生き方も もう一方にあろうが 稀である
還暦を過ぎ あっと言う間に古稀を迎えた我が仲間たちは 会社を離れ 馴染みの薄い地域社会の中で 孤独を味わってはいまいか
まだまだ体力があり円熟の知力を備えた還暦古稀軍団が 日本活性の元となると考えるが如何

高野山専修学院25期同期会
10月17日定山渓にて一泊の専学同期会が開催された
夫婦同伴のものは私を含め四組 十七名の参加であった
卒院後何人かの人とは交友を得ていたが ほとんどは昭和43年以来 40数年ぶりの再会である
ホテル到着4時 すでに到着の幹事山縣氏に会い  “お互いに変わったね”などと談笑し 持参した当時のアルバムで出席者を確認する
6時半 いよいよ宴会開始 会場へ向かう
〜うーん 誰だっけ? 面影はあるんだが 名前が? あーあ そうそう〜
“暫く 40年ぶりだね” てな調子である
幹事の挨拶に始まり 近況や当時の思い出が語られ 持参のアルバムが大いに活躍 25期は46名 下は中学を卒業したばかりの人 上は60歳を超えた人 般若心経さえ知らぬものから すでに僧侶として一家をなしていたものまで様々である
この46人が すべておなじ条件の下 寝起きを共にし ひたすら礼拝と読経と作務の毎日を送るのである
“1年が早い”と言うのが 最近 私の慣用句であるが この1年はなんと濃い1年なのか 同じこと 単純なことをひたすら繰り返す日々
まさに体感 体得をする スポーツやあらゆる芸術の基礎練習に相通ずるものがある 僅か1年で学び得たものが 如何に今をなしているかを思い知らされる
現在の学校教育のあるべきよう 地域社会のあるべき姿に 生かせぬものかと考えさせられる
話題は当時のあれやこれや 現在のあの人この人 全く知らなかった爆弾宣言や どうしても思い出せないエピソードが披瀝され 午前0時お開きとなる
僅かな時間の再会に全国から集う仲間たち
40数年前 偶々の出会い 1年だけ起居を共にした仲間たち
幸いであれ 健康であれ 

つれづれに
時の経つのが早い。最近の慣用句である。
1年が、10年があっと言う間に過ぎていく。
幼い頃、正月を待ち望んだ、遠くて長い1年が、今は懐かしい。
61歳還暦を目前にしたとき、“とうとう来たか”の感慨一入であった。
父が65歳で逝ったということもあるが、その年をあっと言う間に越え、明年は古稀を迎えるのである。
10月に多少時期を早め、父の三十三回忌と、高校を終えたばかりで早世した、妹の五十回忌を執り行う。
少女のままの妹を想うとき、あんなことがあった、こんなこともあったと替えがたい1年1年が思い起こされる。
この頃の1年1年を振り返ると、大きな事件や事故、自然の災害が頻繁に起き、忘れてはならない1年1年であるが、光陰矢の如く、月日は無情に過ぎていくばかりである。
10月法事を終えた後、定山渓に於いて高野山で1年間修行した専修学院25期の同期会が予定されている。
体調を崩して5年ほど関西方面には出かけて居らず、それまで毎年会っていた人たちとも久し振りであるし、40数年ぶりの再会もあるのだろう。
古いアルバムを引っ張り出し、当時を思い起こしていると、なんとその1年が濃い1年であったか。
行事に追われ、四季の移ろいを楽しむこともなく、あっと言う間に過ぎてゆくこの頃に、カンフル剤注入となるや、楽しみな再会である。

平成24年大祭 大般若転読法要後の法話より
よう お参りいただき ありがとうございました
少々お時間をいただき お話をさせていただきます
早いもので 昨年の大震災から1年4ヶ月の日が経ちました
多くの方が亡くなられ 様々な形で避難生活をされている大勢の方が居られます
そして何よりも原発の問題が深い傷痕として残りました
この1年あまりの間 復興復旧をあざ笑うかのように 台風 大雨 竜巻などの自然災害 信じられないような交通事故 無差別殺人が次から次へと続きました  私たちは常に災害事故の不安を抱えながら生きているかのようです
さて只今の法要は大般若転読法要と申します
600巻の経巻が [大般若波羅密多経巻第○巻(だいはんにゃはらみたきょうかんだい○かん)(中略)唐(とう)の三蔵法師玄奘奉詔譯(さんぞうほうしげんじょうぶじょうやく)] と大きな声で12人のお坊さんにより転読されました
こちらで(指さして)転読せず経文を読まれていたお坊さんが居られましたが この方は578巻理趣分という 600巻の中で1番大事とされる経をお唱えしておりました
私も何度か理趣分師を仰せつかり この経の中の静慮(じょうりょ)(筆書きの書を示す)という言葉を知りました 廊下に掛けてある全紙額は この二字を書き札幌の書展に出品したものです
いかなる時でも いかなる局面においても方向を見失わず 静かに慮る(おもんばか)ということです
つい先頃 政界のトップが ぶれると批判され 1年あまりでその座を降ろされましたが 政治家ばかりではなく 経済界も教育宗教etc・・・ほとんどの人たちが 目先のことに囚われて くるくる変わる猫の目のように 目標を見失なっているように思われます
今こそ100年の大計を掲げ 次代につなげるべきは何であるかを静慮すべき時ではないのでしょうか
昔流行(はや)った“ふれあい”という大好きな歌がありました  歌詞の中に<人は皆 一人では生きていけないだから>とあります  人は一人で生きていけないのです 誰かに助けられ 誰かを助け 順送りに命を繋いでいくことが 生きているということなのです  機械ではない コンピューターではない 人から人へなのです
生きているということは 人と人とのふれあいが いかに大事なことか この歌は教えています 
昔の長屋 今マンション 長屋のイメージは向こう三軒両隣 遠い身内より近くの他人 出入り自由で 子供はみんなが育てている そんな感じがしますが 今はどうでしょう  個人情報という壁と 厚い鍵付きの扉が人とのふれあいを遮断し <見知らぬ人に声を掛けられたら逃げ帰ること>と教育されています
今や地域社会は集から個へ移行し ものごとの次代への継承が途切れてしまう危険をはらんでいます
この山寺も今は百戸くらいが町内会を作っておりますが 私が小学生の頃 人家は5,6戸でした
子供の数は今も昔も変わりませんから いかに高齢化が進んでいるのか推して知るべしです
それでも町内会を創設した40年ほど前はたくさんの子供が境内地を走り回り 町内会の行事として花火や一泊まりの肝試し 祭りの行事の子供相撲に子供の歓声が常にありました
今はそんな行事も一つ二つと取りやめ 境内の遊園地も数年前に取り壊しとなりました 実に寂しい限りです
ここに限らず地域が疲弊している現状を 今真剣に考えるときです
東日本の復興復旧は 日本人一人一人が人としてのどうあるべきかを静慮し 日本人一人一人の意識を変えていくことが第一であり 日本全体が変わることだと思いますが如何でしょうか? 

“甘い、やわい、ヤバイ” 2011年2月
甘いは“美味”の代名詞であり、戦後甘いものは、いつも腹を空かしていた子供達の憧れであった。
しかし、高度成長の中で、特に果実の糖度は上昇し続けてきた。
幼少時、りんごは甘酸っぱい果実であり、唯一甘いりんごはインドりんごであった。
近年りんごに限らず、糖度の低い果実は店頭から姿を消し、テレビ番組中、農家で試食するレポーターの最大賛辞の言葉は“甘い”である。果実に限らず普通生では食べない野菜を生かじりし“甘い”そして“やわらかい”を連呼する。
“やわい”の食感は魚肉の“美味”の代名詞でもあり、よりやわらかく調理することが、調理の極意のごとく報じられる。しかして、歯ごたえのあるものは少数派となり、昔、おやつ代わりに食していた干物や小魚はサプリメントで代用する時代である。
食育と言う言葉が生まれ、食生活の大事が注目されているが、世界で流通しているあらゆる食材の安全、適正価格、有効消費等、方向性を間違わないよう望むところである。
昨今の若者は、“美味”をヤバイと表現する。
これはもう、感嘆詞である。
言葉は生きものであり、常に進化し、変化し、時には退化してゆく。言葉の地域性はどんどん集約され、中央から発生した奇妙な言葉がやがて市民権を得、認知されることもある。
最近は生まれた子供の名付けも、国籍不明と思しきものが増え、日本男児、大和撫子らしさの命名は、極少数となりつつある。
日常の会話もカタかな、アルファベット、略語の類が飛び交い、判断不明なることも多々生じることとなる。
万葉の昔から、言葉の変遷は繰り返し試行錯誤されたことであるが、近年、マスメデイアの目まぐるしい展開により、おびただしい数の言葉が、あわただしく生じては消えている。
“日本語が乱れてる”“方言が消えてゆく”“日本らしさとは何なのか?”
今、私達はこれらを踏まえ、美しい日本の様々を再考すべきでなかろうか。
礼儀を重んじる武道や、主客の作法、もてなしの心を第一とする茶道をはじめ、〇〇道というものの中に美しい日本が見え隠れするのであるが如何。 
日常生活の中、学校教育の中で、美しい国再発見の手だてを切に希望する。

2010年 新年所感
日本人は 礼儀正しい国民である。
いや、あったと言うべきかもしれない。
普段の挨拶を考えても、土地柄により、四季により、儀礼により、時間帯により、様々な挨拶があり、相手を気遣い、相手への深いおもいやりが感じられる。
日本の武道、茶道はもとより、習い事、慣例行事全て、礼に始まり礼に終わることを旨としている。
最近特に注目されているのは、外国人力士の多くなった角界の様々である。
国技といわれる相撲は日本人だけで、と思うのは私の勝手な思いであるが、少なくとも日本の文化、しきたりを十分伝える事が不足していることは否めない。
他の武道もそうであるが、勝敗を最終最大の目的としている他国のスポーツとは著しい違いがあり、精神の鍛錬を主眼としている等、他国の人には到底理解しがたいこところであろう。  
日本で生まれ育った日本人にさえ理解され難い現代、ましてや異国の人に於いてをや、ということかもしれない。  
挨拶は家庭での躾(しつけ)として、ごく日常行われることであり、躾に限らず物事の習得は日常化することが、最も大事なことである。
しかし、昨今は少々事情が変わってきた。核家族で親子のふれあう時間が減り、「おはよう」も「ただいま」も「いただきます」も「おやすみ」も、一人淋しくつぶやくだけ、会話はメールでという時代である。  
地域のコミュニケーションも希薄になり、幼い子等への教育は“知らない人に声をかけられたら、逃げて帰ってきなさい”である。
これでは礼儀正しい日本人という評価が生じる道理がない。  
最近の新入社員教育の第一番は、挨拶、お辞儀の仕方、客の応対であり、あたり前に出来ていたことのマニュアルが一様に教育されているということである。  
全国一律、同じ角度で頭を下げ、同じところに手を揃え、同じ抑揚で挨拶がされている。  
ロボットのような、機械的な挨拶が教育されている現代社会に、寒々とした感じを受けるのは果たして私だけだろうか。  
おもいやりの心を大切にした挨拶が、普通に取り交わされる社会作りが、今、大事なことではなかろうか。          

2009年やぶにらみ
チェンジと叫んでアメリカのトップが変わった。
それに前後して、天変地異の言葉通り、全ての変化変動は目まぐるしく、いつまた何が起こるか、ちょっぴりの期待と大きな不安を抱えて日々を過ごしている。
日本も政権交代があり、果たしてどんな舵とりがなされるか、民主党の動向を息をひそめて見守っている状況である。
世界を震撼させた経済破綻は、ぬるま湯状態にあった国民全体に、突然冷水があびせられたようなことであった。
政治家の公約もいいことづくめで、まるでマジックの如き話であり、机上の空論とも思える根拠の乏しい数字を並べ、国民の意識を高揚させてはいまいか。加えて、その隙間を狙って、エコ製品、CO2削減と称する製品が次々売り出され、果たして如何程のものなのか大いに?である。
世界の首脳を集めてのエコ会議も、エコとは程遠い接待、恒久的でないデモ施設等、間違っていませんか?お偉い方々!
食糧問題もゴミ問題を含め綿密な地産地消を考慮し、将来を見据えた方策を講ずべきである。
日本人は戦後競いあうことを第一義として、本来の日本人らしさ、謙譲、おもいやりといった美徳が薄れてきたのではあるまいか。
ごくあたり前のことであった日常の挨拶、目上の人に対する言葉使いが出来ない若者が増え、新入社員には、あいさつのマニュアルが必要であるという。
マニュアル通りの挨拶が浸透し、音声ガイダンスと変わらぬ、人のぬくもりの感じられないあいさつが益々増えている。
イメージ先行、マスコミ主導に拍車がかかり、国民全体がマスコミ教信者ともいうべきである。
オバマ氏で明けた、この一年がオバマ氏ノーベル平和賞受賞で幕を閉じようとしている。チェンジと叫んで一年、全てが始まったばかりの今、とりあえずのご褒美というには、余りにも時期尚早ではなかろうか。
最近の時事の変遷は百年の計とか、十年一昔といった言葉が死語となるような、思いつきの目先改革である。

とりあえず 言いっぱなしの評論家に一貫性がない
とりあえず 立候補した選挙第一の政治家にビジョンがない
とりあえず 投票した有権者に主義主張がない

結果の良否は全て後まわしである。
ここで、締めくくりの川柳一首
  『 近頃は 先は見てない とりあえず 』              お粗末

平成21年つれづれ所感
昨今は天変地異の言葉通り、天にあっては豪雪、厳寒、暖冬、台風、大雨、極暑、冷夏等と目まぐるしく、なだらかな四季のうつろいは感じられない。
地にあっては、経済破綻余波の果てる先が見えぬまま、政財界のトップたちは、唯、右往左往するばかりである。
誰かが言った。100年に一度の経済危機ではなく、100年に一度の人材不足であると・・・。
品格、風格という言葉が似つかわしい人材が見あたらなくなった。
窮状にヒーローが登場するのが、歴史の常道のように思っていたが、望めそうにない現状である。
“昔は良かった”とは必ずしも言えないが、多くの良い所を置きざりにしてきた気がする。そして今尚、日本らしさの良い部分が消えさろうとしている。
この頃、一年がつくづく早いと感じる。私達の年代になると皆そう感じるのかと思っていたが、この頃、若い世代から同じことばを聞くようになった。
電化された日常生活、何でもそろっているスーパー、主婦の昔と今は格段に雑事の時間から解放されたはずである。主婦ばかりではなく生活の全てに於いて利便の機器が日々発展し続け、時間の余裕を得たはずであるが、果たしてそうではない。
時間の余裕がないと思われた昔、日々はゆったりと感じられた。多くの神器を得、多くの余裕が与えられたはずの今、パソコン、携帯等に振り回され、却って時間に追いかけられ、余裕のない時を過ごしている。加えて、何でも手に入る現在の大きな問題点はゴミでありエコである。社会を変えることは勿論システムの構築であるが、それ以前に大事なことは、人間個々の意識である。一人一人が生きているという実感を持つことである。
生きるということは、生かされて生きるということであり、生きている限り、自分以外の全ての生命を生かすということである。
我々は次の世代に何を伝えることが出来るか、どんな地球を残すことが出来るか、真剣に考え、行動する時である。

2008年新年雑感
平成19年12月、1年を振り返り、この年がどんな年であったか、清水寺管長により漢字一字が大書された。
見事な筆跡にいつものことながら感心させられたが、新年目前に“偽”は何とも後味の悪いものであった。
ここ数年前より偽装、偽造事件が続出し、時を同じくして“国家の品格”という単行本がベストセラーとなった。昨年は“女性の品格”がベストセラーとなり、品格のない日本人へ、次代の危機を警鐘(けいしょう)しているかのようであった。
“国家の品格”の著者藤原正彦氏は、今日本に必要なのは武士道精神であり、情緒を育む教育を提唱している。
武士で思いつくのは、「武士は食わねど高楊枝」の文言で、痩せ我慢の素浪人の姿が思い浮かぶが、要は私利私欲の無い高潔を旨とするのが、武士道の根本精神と言えよう。 中国の故事に、《李下(りか)に冠(かんむり)を正さず・・・疑わしいことはしない》とあるが、このところの事件は見つからなければ、この程度ならの私利私欲に駆られ、冠に李(すもも)を隠し持ち、1個が2個にと次第に数を増やし、罪の意識に麻痺した品格の無い輩の愚行といえよう。
武士道で大事な教えのもう一つは、惻隠(そくいん)の情であると言う。
惻隠とは弱者への愛情,劣者への同情であり、慈悲の心に相通ずる。
仏教には同事と言う教えがある。相手と同じ目線で物事をを判断するということである。相手が弱者であり、劣者であり、老人であり、子供であるとすれば、果たして現代は同事や惻隠の情が生かされていると言えようか。
何事も事務的、合理的に処理されてはいないか。
昭和48年(1973年)の敬老の日、首都圏においてシルバーシートが設けられ、その後全国に及んだ。この頃から日本の教育の中から、席を譲ると言う項目が排除された・・・と私には思えた。
現在は優先席と名前を変えられているようであるが、先日大して混んでもいない電車内で“この車両には優先席が設けられております。必要とされる方に席をお譲り下さい”と車内放送された。
これを良しとする優先席提案者の考えが、どうしても私には理解出来ない。
次の車内放送では、“必要とされる方に優先席を譲らなければ罰金が課せられます”となるのでしょうか。
惻隠、慈悲、同事はおもいやりの心である。
大家族の中では、子供は子供なりの責務が課せられた。それはお互い様のこととして子供なりに理解をし、おもいやりの心が育てられた。
集から個の時代となった今は、人に迷惑さえ掛けなければ良しとする考えが横行しています。
果たしてそれで良いのでしょうか。
人は一人で生きていけないのです。
生きるということは人に迷惑を掛けることなのです。 迷惑はお互い様のこととして、おもいやりの心を育てなければ、次代への継承は寸断されることとなるでしょう。

日本らしさ
藤原正彦氏の「国家の品格」がベストセラーとなり、私も久しぶりに読書の人となった。
最近は老眼が進み、特に文字の小さな単行本はページを開くのに勇気が必要である。
しかも、老化の一途を辿っている我が頭脳は、2度3度の読み返しでも、内容の把握はままならないと来ているから、厄介なことだ。
内容は、“我が意を得たり”の感があり、最近頓にゆとり教育の見直しや、武士道のことが注目されるのは、この著書に因るのではと思われる。
藤原正彦氏が推奨する、日本人の道徳の中核をなす武士道の精神とは如何なるものか、新渡戸稲造著の単行本「武士道」を購入したが未だ手つかず、今暫く猶予が必要のようである。
日本人は「〜道」が殊の外好きな国民なのか、書道、華道、茶道、剣道、柔道等々、挙げたらキリがない。
国技である相撲も、相撲道と呼んで、何ら差し支えはないだろう。
剣道では、一本取ったときに、勝ちを誇示するポーズをとると、勝ちが取り消されるそうだ。日本の武道は、単に勝ちを目的とするのではなく、相手を思いやる精神の練磨にあり、《》に共通することは礼儀、思いやり、心技体の美しさであると言える。
小学校の頃の贔屓力士は千代の山であったが、そのころは、今と違って北海道は多くの力士を輩出し、その後多くの横綱が誕生した。
その中、まさしく心技体が充実した大横綱は、大鵬関である。
常に淡々とした土俵態度は、頭が下がる思いがし、勝っても負けても大横綱としての風格が感じられた。
現在幕内力士42名中、14名が外国人力士である。
国民性が大きく異なる彼らが《道》をどう理解しているのか、時折小さなガッツポーズを散見すると、国技としての相撲道の幾末が心配になるのは私だけだろうか。
欧米化が進み、日本人らしい日本人が少なくなり、町中は横文字にあふれ、誕生する子供の名前は判読不明、国籍不明、奇異なるものが増えている。
礼儀を重んじ、相手を思いやり、謙譲を美徳とする日本人本来の品性は、他国の人が理解し難いところと言われるが、今、日本らしさの品性を取り戻すことができたら、果たして品格のある国家、美しき日本の誕生となるのだろうか。

私の日本が消えてゆく
《その1》
昔 箸の持ち方は それぞれの家庭で躾けられた
右手は箸を持つ手 左手は椀を持つ手として 幼いころ右左を聞かれると これを思い浮かべたものである
私の男2人女2人の兄弟の中 弟だけが左利きであったが 箸と筆だけは右に直された
今は右脳左脳の発達を妨げるとか何とかの理由で 無理に矯正しないとのことである
テレビのドラマ等でも左利き 無様な箸の持ち方をしているものが如何に多いことか
美しい和服姿の美女も 無様な箸使いでは 興ざめもいいところである
筆の持ち方も同様 理解に苦しむ複雑な持ち方をしているものを見かける
筆と箸の持ち方は相通じるものがあり 道具として毎日必ず使う箸は 書の上達に相通じるところである
道具を自由に使うということは 如何にそれを日常化するかにある
箸はものをつまめればよい 筆は字が書ければよいでは他国の人に笑われませんか
右手で使う箸や筆は 日本の大事な文化だと思うのですが 如何

《その2》
このごろの子供の名前が読めない
音訓の読み方がごちゃごちゃで これで良いのかと首を傾げたくなるものがある
昔の名前は太郎花子に代表されるが ある時期から○郎○子の類は影を潜め 源氏名か芸名かと思えるような名前が大勢をしめるようになる
最近はどうかというと 外国語に漢字を当てたもの 動植物や自然の事象そのまま 男女の区別が判別しかねるもの等々
個性的といえば個性的ですがねえー
奇妙きてれつに思うのは私だけでしょうか

《その3》
引き出しの奥に二千円札が数枚 使われずに眠っている
あれは何だったのでしょう
トップの人が言えば物事が叶うという 代表的証左である
ゆとり教育の是非が取りざたされている
英語教育だけは重視され 国語や算数教育は軽視され 童謡や文豪の名が教科書から消え円周率の書数点以下切捨て等はまことに意味不明
誰が決めたことなのか 日本らしさがどんどん消えてゆく
看護婦さん 保母さんも いつの間にか消えていた
婦は 女偏に箒で差別語である と誰かが言ってたが 本当にそうなんでしょうか
理屈はどうあれ 消えてほしくない やさしい響きの日本語でした  

平成18丙戌年 新年雑感
まれにみる豪雪の年である
連日記録的な積雪 家の崩壊 それによる死者の続出が報道された
小樽も昨年に続いての大雪であるが 量的にははるかに昨年を越えた
連日の雪除けも そろそろ体力の限界である
昨今の天災は 豪雪に限らず 特に新潟地方は地震 台風 大雨に続く雪害であり 誠にお気の毒である
一方 老人をターゲットの詐欺事件 幼児の虐待 殺人事件が後を絶たない
この頃テレビニュースを賑わしている耐震強度偽装問題も 自分さえよければ 今さえよければと言う 短絡的な現代の世相が浮かび上がってくる
物がなかった時代 物を大事にしなければ生きていけなかった時代 三種の神器を掲げ購買を煽った時代 そして使い捨てが美徳の如きゴミ戦争の現代 一体日本はどこへ向かおうとしているのか
ある人が言った 勿体ないを世界共通の言葉にしよう
死語となりつつあった勿体ない                  
私が子供時代 なにかにつけて勿体ないの言葉が聞かれた
勿体ないは畏れおおい かたじけない ありがたいの意である
勿体ないは命を大事にする 物を大事にすると言う 日本人の心が込められている
すべての物に神が宿るとして受け継がれた日本の伝承 山川草木すべてに命が有るとする仏教の教えが 勿体ないの根底にある日本人の心である
最近 コンビニやデパ地下で売られている弁当 総菜の数の多さに驚かされる
余った物は 一部飼料利用のほか 全て廃棄される 
一体日本全国でどのくらいの量の食料が捨てられるのか?
少な目に生産するなどの配慮はできないものか
一事が万事 過剰な生産 過剰な包装 過剰な宣伝 ゴミの量は増え続けるばかりである
   
日本人の心とは何なのか? 
次代の子供たちに伝えるべきは何なのか?

日本丸の向かうべき正しい舵取りをするのは唯今である

〜 2005 小樽佛教会 広報誌 第17号より 〜
昨年末、本間聖丈先生が亡くなられた。広報誌創刊からエッセイの執筆をお願いし、4号からは表紙絵を描いていただいた。今にして思えば大変不躾なお願いであったが、快くお引き受けいただいた。エッセイは洒脱にして含蓄深いものがあり、表紙絵は手抜きなし、常にプロの仕事のオリジナルであった。
しかし平成12年病に臥され、12号が先生最後の表紙絵となった。
お見舞いに伺ったとき、ダンディで精力的に活動されていた面影はなく、再び絵筆を持つ姿を想像することすらできなかったが、退院して間もなく活動が再開され、我々を驚かせ、安堵させた。社中展を再開し、活動の幅は徐々に広がり、平成15年五百羅漢宗円寺壁画を生徒さんとの共同作業で完成させた。
昨年11月、小樽市功労者として表彰され、お喜び只中のご逝去であった。私自身短い期間であったが先生に師事し、その後の私の生き方に少なからぬ影響を与えてくれた。
道新の墨絵教室に通い始めた昭和61年、先生のこと、墨絵のこと、何も知識のないままの入門であった。教室は昼の部夜の部がありいずれも日本画水墨画の生徒が約半々で十数名であった。先生の教え方は基本を繰り返し教えるというより、様々な題材の手本を与え、その中で技法を習得させるという教え方であった。水墨の生徒はその都度、その場で色紙の手本を描いていただき、今にして私の大財産である。先生の教室は他にも何箇所かあり、生涯描かれた色紙の手本は膨大な数となろう。様々な題材を生徒に描き与える、このような教え方は、おそらく先生自身の修練の時でもあったと考えられる。
芸能、芸術、スポーツ等々に限らず、すべてのことに於いてそれぞれの行為を日常化することで、そのものの修得を可能にする。技術の取得は単なる偶然ではなく、日々の努力であり、常に平均点以上を維持することがプロとしての最低必須条件とも言えよう。
平成17年、年明け晴天のある日、そう諭されているかのよう微笑んでいる先生を思い起こしております。


    和顔愛語で暮らしましょう    平成17乙酉年2月
平成17年 穏やかな元旦を迎えました
昨年甲申の一年は 天災の連続 私の還暦は大厄年に終始しました
穏やかな正月も 三ヶ日が過ぎると連日の雪 豪雪の地新潟で避難生活を強いられている人達のご実家が 雪に押しつぶされている等の報道があり 誠に気の毒なことです
1日も早い復旧を唯々祈るばかりです
とにかく1月は連日雪 雪 雪 年毎に除雪はつらい仕事です
寒い冬は南方で 夏は涼しい北海道で・・・ 叶わぬ夢です
我が家では朝食時 NHKのドラマを見ております
今放映の‘わかば’は阪神大震災で被災した家族の物語です
おばあさん役の南田洋子さんは私より多少年上 裕ちゃん(石原裕次郎)時代のヒロインとして活躍した女優さんですが 今は全くはまり役のおばあさん役を演じています
時の流れの早いことを痛感させられます
おばあさんの口癖は‘人間生きちょるだけで丸儲け’です
経文に‘人身受け難し云々’とありますが この言葉も人間として生を受けたことに感謝し 人間として生きていく自覚を説いたものとして 劇中この言葉の存在は意味深いものがあります
最近流行の‘おれおれ詐欺’等 目まぐるしく進歩するIT機器を利用した犯罪が多発し幼児殺害を始め残虐な事件が後を立ちません
人間として生まれてきた自覚に欠けるというより 人間として生まれてきた甲斐がないと言わざるを得なません 否 人間として生れるべきではなかったのではなかろうかと思うくらいです(僧侶としてあるまじき発言か?・・・少々反省)
凡そ人間を二つのタイプに分けると 楽観的プラス思考の人 悲観的マイナス思考の人少々乱暴な分別ですが この二つのタイプに別れます
どうせ同じ年月を生きるなら楽観的プラス思考の人生がいい それが仏教的生き方だろうと思います
仏教の大事な教え 布施の第一は和顔愛語 金のかからぬ誰でもできる布施行ですが 容易そうで最も難しい布施です
日常の中の自然な挨拶 何気ない自然な微笑み 今一番欠けていることではないでしょうか
こころの教育 ゆとり教育が叫ばれて久しいのですが 心を置き去りにしての機械的なうわべだけの事象が如何に多いことか考えさせられます
機械に組み込まれたアリガトウゴザイマスで心の教育は出来ません 
ゆとり教育も時間の長短だけで 心にゆとりがなければ何の意味もありません
花咲うはーはなわらうーと読むそうですが 花のように自然な微笑が 今一番必要なことではないでしょうか
全ての人が他人に笑顔で接し 優しい言葉をかけあうことが出来れば それだけで世界は平和になるんですがねー

〜 平成16年小樽佛教会 広報誌 第16号より 〜
とうとう今年還暦を迎えることとなった。“私が学生の頃は”とか、“今の若い人たちは”とか、そんな言い回しをするようになったのは年老いた証左なのかもしれない。
昭和19年、終戦の前年に生を亨けたのであるから、その当時の育児は並大抵でなかったことと思われる。
飽食の時代と言われる現在の日本を、当時誰が想像しえたであろうか。食べ物に関わるテレビ番組のいかに多いことか、ただただ驚くばかりである。大食を競う番組が、一時人気を得ていたが、さすがに物議をかもし、中断された。
食前“いただきます”と言う言葉は、食べ物のいのちへの感謝の気持ちであり、日本人が培ってきたすべてのいのちを大切にする日本人の心である。勿体ない、ありがたい、お陰さまといった言葉もそれに繋がる言葉であろう。
日本の風習、様々な年中行事の中にも、いのちを大切に、物を大切にする心が受け継がれてきた。それは自然と共生する人間の謙虚な気持ちに他ならない。
ところが現在の日本はどうであろうか。人間至上の考えが自然破壊を引き起こし、更には環境問題、使い捨て、ごみ戦争等の悪しき構図を作っている。
小樽佛教会が“いのちたいせつ”をメインテーマに掲げ、花まつり、万灯会、佛教研究会などの活動を展開してきたのは、命の大切さを伝えることに他ならない。青年僧侶によるロックバンド“シャクソンV”の活動も又然りである。私自身も、詩や絵を添え、この言葉を自坊の教化活動の一助としている。
しかし、すべての命を同等に考えることは難しく、自然界は弱肉強食の世界であり、私たちは他の命をいただいていのちを繋いでいる。動植物の中、食べ物とそうでないものと区別しているのも、人間の勝手な判別によるとも言える。
又、人間の勝手な判断により、自然界のバランスを崩すことはままあることである。これに関わる話を「梅原猛vsひろさちや対談集日本人・いのちの風光」より引用させていただく。
ひとつはアメリカアリゾナ州ケイハブ自然公園の話。鹿を増やそうと天敵のピューマ、コヨーテ、狼をすべて殺したところ、10年後、数千だった鹿が数10万に増え、やがてストレスを食糧不足で全滅したと言うことである。人間の小ざかしい知恵が、自然界のバランスを崩した例である。
もうひとつは1960年代アフリカの話。マラリヤによる乳児死亡率が80%を越えている地域があり、WHO(世界保健機構)がマラリヤ撲滅作戦を展開し、死亡率は10%に激減した。しかし、10数年後、急速な人口増加で食糧危機となり地域住民は全滅していた。急速な改革、一方的な改革、全体を見ていない改革、医学科学だけが先行している改革として考えさせられる事例である。
さて、いのちの平等、食べ物としての命をどう考えるか。どう答えても、言い訳がましい弁解となりそうである。今の私には到底結論を出すことはできない。
只言えることは、日本人が培ってきた、いのちに感謝する心を取り戻して行くことが、今、日本人の抱える様々な問題の、ゆったりとした改革に繋がることではなかろうか。